宮古島キッズネット
 
プロヴィデンス号物語
 

プロビデンス号

* 教育関係者、保護者のみなさま:

この物語は、プロビデンス号のウィリアム・ブロートン艦長が1804年に航海日誌をまとめて出版した、「北太平洋探検航海記 1795 - 1798」 ( A voyage of discovery to the north Pacific Ocean, 1795-1798: William Robert Broughton )より、宮古島キッズネットが子どもの教育参考資料・読み物として、宮古島に係る部分(9ページ)を原文に忠実に翻訳後、子どもにわかりやすい文体としてまとめたものです。

イギリス海軍(ロイヤル・ネービー)の歴史を見ると、1637年から1943年の270年間に合計12隻の軍艦がHMSプロビデンスと名付けられました。 1943年建造の掃海艇だけが蒸気タービンエンジンを搭載した近代型戦艦でしたが、それ以前の11隻はすべて帆船でした。 八重干瀬サンゴ礁に沈んだのは、1791年建造の第八代プロビデンス号です。 プロビデンス号が、当時海図には記載されていなかった八重干瀬で座礁するまで、及びその後小型帆船に乗り移ってからの宮古島付近での行動状況を海図に反映させる作業を続けていますので、終了後、このサイト上で公開します。

なお、これらは児童の教育目的に限定しての資料です。 一般サイトへの転載はご遠慮下さいますよう、お願い申し上げます。 (宮古島キッズネット 運営管理部)
ブロートン船長については、こちらで読むことができます。ウィリアム・ブロートン船長
 
 
イギリス海軍プロビデンス号

(ウィリアム・ブロートン艦長の航海日記より、宮古島の人々との交流部分の抜粋)

 
第二章  
まれに見る思いやりを持って、私たちをもてなしてくれた太平山(宮古島)の人々
 
プロビデンス号 1797年5月17日 (宮古島の人々との出会い 1日目)
   
この日、八重干瀬(ヤビジ)で座礁(ざしょう)したプロビデンス号から、小型帆船(はんせん)に全員乗り移り、物資補給(ほきゅう)のために、宮古島に来ました。

夕方6時、宮古島から3〜4マイル(4.86.4km)離れたところで、小型帆船(スクーナー船)の錨(いかり)を下ろすことのできるポイントを探す。 頻繁(ひんぱん)に深さを計りながら進むと、ちょうど13ヒロ (約23m)ほどの深さのポイントを見つけ、停船(ていせん)。

できるなら、この島で燃料用の薪(まき)や水を調達したいと思う。 現地の人の漕(こ)ぐ一隻の小さな船が、こちらに向ってきます。 船の側に来たので、薪と水桶(みずおけ)をみせると、その人は了解(りょうかい)したとうなずき、すぐに島に帰っていきました。

まもなく、舟は水を積んで戻ってきました。 私たちの船からは、遠くに二つの大きな集落が見えます。 士官(しかん)たちを、水を運んでくれた舟に乗せてもらい、その二つの村を訪問させました。 いずれの村の人々も、これ以上の歓迎(かんげい)はないと思われるほど、にこやかで友好的に迎えてくれたようです。
 
プロビデンス号
その日、彼らは水をたっぷりと船に持ち帰ることができました。
 
1797年5月18日 (2日目)
   
この日の午後、村からは小舟に薪、粟(あわ)などの雑穀(ざっこく)、鶏肉、ブタ肉など、私たちが求めていなかったにもかかわらず、たくさんの品々を積んでやってきました。
代金目的で持って来たのではなく、最初から代償(だいしょう)を一切求めることなく持ってきてくれたことが良くわかりました。

またこの人たちは、島の東側に行くと、もっと多くの補給物資(ほきゅうぶっし)を手に入れることができると教えてくれました。

風及び天候も良好なので、明日は船員たち数人を小舟でプロビデンス号に行かせて、残してきた物資をできるだけ回収することに決めました。

午後には雨、風ともに強くなり、村に行くことはできませんでした。
 
1797年5月19日 (3日目)
   
船で朝食を終えてから、この日も思いやり溢(あふ)れる人々の住む村に行きました。 この人々はいつ行っても、心あたたかくむかえてくれます。

この日は、村の長(オサ)と思われる人の家に招待されました。 家に上ると、中はとても広く、しかもこの地域の気候・風土に合わせた、とても住みごこちの良い造りであることがわかります。 床にはきちんと敷物(しきもの)が敷(し)かれており、家具や調度品も作りの良いものが揃(そろ)っています。

床には一人ひとりの客のための座布団(ざぶとん)が用意され、東洋の人が座るように、床に直接座ります。 座ると間もなく、お茶とパイプタバコがだされました。 威厳(いげん)を持った年長者の方々が、私たちと座を共にしています。

彼らの身なりは、ともにゆったりとした上等な繊維(せんい)で作られた着物を着ています。 しかもその着物も、一人ひとり柄(がら)や色合いが異なる手の込んだもので、多彩です。
着物の上から腰に帯を巻き、ズボンをはいています。

彼らの頭髪は、額(ひたい)から頭頂にかけ剃(そ)っており、髪の毛は後頭部より中心に集めて縛(しば)、これをまとめて鉄製のピンで留めています。このヘアースタイルは、ちょうどマレー半島で見た男性のものと似ています。

彼らは手に扇子(せんす)を持ち、しょっちゅう動かしています。 老人の中のある人は、植物性の茎(くき)で作ったと思われるおしゃれな帽子をかぶり、あごひもをしっかりと結んでいます。 また、この席にいた老人達は、全員その威厳(いげん)にふさわしい髭(ひげ)をたくわえていました。 
 
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この村オサの家は、海辺から少し離れた小高い場所にあります。 家の入り口には、3メートルほどの高さの立派な石塀(べい)があり、門の側には守衛用(しゅえいよう)と思われる小屋もありました。
部屋はゆったりとした作りで、畑を見渡せるバルコニーもあります。

私たちは、この村の人々に私たちの必要なものを伝えるのに、全く不便を感じませんでした。 というより、むしろこの村の人々の素晴らしい心遣(こころづか)いが、私たちの必要を予(あらかじ)め予測し、私たちの予想を超えるかたちで全てととのえ、私たちに格別な感動と満足を与えてくれたのです。 

ところで、ひとつだけ私たちの願いの叶わなかった事があります。

それは、村の中を見てまわる事でした。 私たちがどのように説得しようにも、私たちが、けして村人に危害を加えない者たちであると説明しても、この申し入れについては、頑(かたく)なに断られました。
プロビデンス号 私は、この村の人をこれ以上困らせるべきではないと考え、あきらめ、船の上から村の様子を見ていました。 村の水くみ場では、私たちに物資を運んでくれた人々が、井戸から水をくんで畑に散水(さんすい)しているところです。 彼らも私たちが見ていることに気付いたようで、洗い物用の水と飲み水を余分に差し入れてくれました。
 
またこの日、村の人たちは私たちのために、薪と大きなブタ3頭を用意してくれていました。 午後からは雨と強い南風となり、村への行き来はできませんでした。

一方、プロビデンス号の物資を回収しに行ったカッター船とロングボートの船員たちは、夜の9時、帰路(きろ)に着きました。 風が東向きに変わったので、島の反対側に船を進めましたが、さんご礁が船の左右に次々と現れ、進むのに非常に困難な状況の中で、やっと3.5ヒロ (6m)ほどの深さの安全な場所を、小舟が2~3隻ある小さな村の近くに見つけ、アンカーを下ろしました。 私たちの船が停泊(ていはく)していた村からは、約10kmほどの場所だったようです。
 
1797年5月20日(4日目)
 
朝は、南西の風が吹いていましたが、天気も良く、再び船員たちをボートで座礁(ざしょう)したプロビデンス号に行かせ、プロビデンス号の裏側に回り、積んであった食料をはじめ物資の回収を試みることにしました。

この日の午後、村の人たちが、米と水、そして薪を持ってきてくれました。

午後には天候が悪化。 スコールとともに風も強くなってきました。 私たちの乗るスクーナー船も、風に流されないようにもう1本アンカーをおろして船を固定させました。
夕方になっても、天候は回復せず荒れています。 朝、プロビデンス号に送りだした船員たちのことが心配になります。 

夜、嬉しいことに舟は無事戻ってきました。

彼らの話によると、プロビデンス号のところに行くことはできたのですが、とても物資を回収できる状況では無く、何も持ち帰ることができなかった事がわかりました。 また、近くの浅瀬(あさせ)に打ち上げられている物がないかと探しましたが、すでに潮で流され、何も見つけることができなかったようです。

この日、プロビデンス号の船体はマストも折れ、切り離されており、右舷(うげん)船首部分がかろうじて水面から覗(のぞ)いている状態だったということ。 近くにマストが見つかれば回収したかった。

ところで、乗り組員は帰りに、私たちがハンモック島(大神島: ハンモック島を池間島と表記しているケースもありますが、当時のイギリスの航海地図上ではすでにハンモック島は大神島で統一されていました。 こちらをご覧下さい と呼んでいる島に立ち寄ったそうです。 驚(おどろ)いたことに、この小さな島にも人が住んでいました。 島に上陸できる水路は限られており、一ヶ所しかなかったとのこと。 島では芋(いも)が栽培されていました。
 
プロヴィデンス号
村に入ると、あちこちに船の残骸(ざんがい)と思われる木が集められていました。 また島の中を歩いていると洞窟(どうくつ)のような場所数ヶ所に、人の頭部の骨があったそうで、これは多分、私たちほど幸運でなかった船員たちの骨なのかも知れません。

小さな村に入ると、船員たちの様子を見ていた島の人々が、すでに彼らのために水をくみ、芋(いも)を用意してくれていました。 この地域の人々が皆そうであったように、この小さな島でも住人から思いやり溢(あふ)れるもてなしを受けていました。

宮古の島々の人たちは、私たちの不幸な出来事について充分に理解してくれており、状況から何が必要なのかを思いやってくれて、自分たちが持っているものを躊躇(ちゅうちょ)なく慈愛(じあい)をもって分け与えてくれていたのです。

船員たちの話で、プロビデンス号からはこれ以上何も回収できない状態であることがわかり、時間の経過を考えると、仮に回収できたにしても使い物にならないことから、あきらめることにしました。

また乗組員たちからも、着のみ着のままで、着替えもなく、日常生活がきわめて不便であるとの不満が高まっています。 ただ、残された小型帆船(スクーナー船)は、物資を積める量もプロビデンス号の4分の1程度であり、これに、プロビデンス号の乗組員 75名を加えた115名を乗せて航海すると考えると、飲料水も積めるのは1週間分がやっとです。

プロビデンス号 艦長(かんちょう)の私にとって、とても判断の重要な局面(きょくめん)をむかえていました。

そこで考えられる方法は、航海が難しくなる本格的なモンスーンの季節になる前に、この小型帆船に積めるだけの物資を積んで、115人全員ですぐに中国の広東(カントン)に向うこと。

 
もうひとつの方法は、115人のうち、小型帆船の運航に必要な35人のスタッフ以外の乗組員を、宮古島に残す方法です。 そして小型帆船はモンスーンを避けながら北方に移動させ、予定していた調査を継続し、モンスーンが終わる頃までに宮古島に戻り、残っていた船員たちを収容し、広東(カントン)に向うことです。

しかし、もし乗組員をこの島に残すことで、島の人々に迷惑をかけたり、素晴らしい人々に私たちに対する嫌悪(けんお)の気持ちをもたせるような結果となる材料を残すことは、「私たちの国の名誉のためにも、すべきではない」、と考えました。

なによりも、この島の人々の合意を得ることが難しい提案は、はじめからすべきではないと考えたのです。
 
1797年5月21日 (5日目) 記述なし
 
1797年5月22日 (6日目) 記述なし
 
1797年5月23日 (7日目)  
   
朝、私たちが出航するとわかると、村の人々は私たちに贈ってくれる品々の目録をくれました。 
その内容は、麦50袋、米20袋、サツマイモ3袋(計ってみると1袋が45kgでした)。 それと、雄牛1頭(肉にして135kg分)、大きなブタ6頭、そしてたくさんのニワトリが用意されていました。
 
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驚くことにこの島の人々は、いつもこうして私たちの予測をはるかに超えた思いやりの心で、必要を満たしてくれました。

これらの品々を船に積み込み、最後には船の甲板(かんぱん)に積めるだけの水を積んで、出航の準備が整いました。

村の人たちに最後のお別れを言うためと、彼らのしてくれたことに比べると “ほんのささやかな” プレゼントを伝えるために村に向いました。

私たちのプレゼントは、船の絵と望遠鏡、それにプロビデンス号に積んであった上陸用のボート1隻を、船員たちに全ての装備を整わせ贈ることにしました。 挨拶(あいさつ)を終え、一緒にお茶や軽食をいただいたあと、村の指導者のお年寄りに海岸まで一緒に来てもらいました。

海岸に着き、「この舟をプレゼントとして受け取って欲しい」 と話したところ、とても喜んで受け取ってもらうことができました。

私たちにとっては、船の座礁(ざしょう)と沈没(ちんぼつ)というとても困難な状況でしたが、これまで会ったどの国の人々よりも素晴らしい心をもち、文明化し教養度が高く、見返りを一切求めない人間性豊かな人々とめぐり合うことができたのです。
 
1797年5月24日 (8日目)  
   
宮古島より、中国の広東(カントン)にむけ出航。
 
ブロートン船長については、こちらで読むことができます。
 
「プロビデンス号物語」 の基となったブロートン艦長による著書、「HMS プロビデンス号による北太平洋発見の航海日誌」 の1804年初版の表紙(左) と2014年発行されたマイクロフイルムからの復古版(右)です。
British Library 1804 British Library 2014
 
プロビデンス号が座礁した地点はここです。
 
右の地図は、プロビデンス号が座礁した場所です。

プロビデンス号は、1797年 5月 17日、 池間島の約12km北にある、「ドウ」 といわれる環礁 (かんしょう = サンゴ礁で囲まれた場所 ) の中のひとつ、「ウッグス・ヌ・ツスウヒダさんご礁」 の西端()に乗り上げ、船底に穴が開き、沈没しました。

地点情報:

北緯 25°2′37.1″
( 25.0436583)


東経 125°13′23.7″
( 125.223250)
 
 
右の地図は、国土地理院の電子地図情報をベースに、座標情報を入れてあります。
プロビデンス号 座礁地点
 
ハンモック島ってどの島のこと?
 

宮古島が航海地図に掲載されるようになって以来、今でもハンモック島については幾つかの異なる解説がされていました。 そのひとつがハンモック島を池間島と表記しているケースです。 しかし、当時のイギリスの航海地図上ではハンモック島はすでに大神島で統一されていました。
下の文献は、1895年に出版されたイギリス王室地理院がまとめた航海図の解説書です。 宮古島の島々の地図に付けられていた解説文は、296ページにあります。 
赤のアンダーライン部に、「大神島 (この地図でハンモック島とある島)」、とあります。

Courtesy of
The Royal Geographical Society of Great Britain
"The Geographical Journal" Published: 1895 Page: 296
 
プロビデンス サンゴ礁とも呼ばれている八重干瀬
 
プロビデンス号が宮古島の近海を航海していた当時、イギリス海軍の海図には八重干瀬サンゴ礁については何も記載されていませんでした。 そのため、サンゴ礁での座礁は全く予想外の出来事だったのかもしれません。

このプロビデンス号の座礁事件の後、八重干瀬サンゴ礁はその位置情報と共に海図に Providence Reef (プロビデンス サンゴ礁) として記録され、今でも世界の軍関係の海図上では下のアメリカ国家地球空間情報局のデータにあるように、Providence Reef が使われています。
Courtesy of National Geospatial-Intelligence Agency
 
池間島にあるプロビデンス号来航200年記念碑
1997年5月設立
 
 
References:
1. A voyage of discovery to the north Pacific Ocean, 1795-1798: William Robert Broughton
2. British Library, Histrical Print Editions 1804
3. National Geospatial-Intelligence Agency
4. The Royal Geographical Society of Great Britain
"The Geographical Journal" Published: 1895 Page: 296
5. 国土地理院 電子地図情報
6. Master and Commander: Patrick O'Brian (Lippincott, 1969)
パトリック・オブライアン著 「英国海軍の雄 ジャック・オーブリー(オーブリー & マチュリン シリーズ)」は、直接の関連性はないものの、プロビデンス号の船内の構造や当時の船員の役割と船内での生活などがとても良く分かる、研究者にとっても貴重な資料です。日本語の翻訳版もありますので、参考にして下さい。
 
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